我流美人  Different is Beautiful 


Do I look best in what I believe in? Or ..  Posted by Hello

自分をどうプロデュースするかが、美人と普通の人との分かれ目である。
・・なんか、斉藤薫氏のエッセイの書き出しのようであるが、ビューティとメディア業界に長くいる私が最初に学んだ事実である。多分最後に学ぶことでもある・・っていうか、プロデュース力っていうのは、うん、これに尽きるね、みたいな、ビューティを作り出す「核」をなす事項なのだ。

プロデュースとは何ぞや? プロデュースとは日本語で「演出」を指す。
カンタンに言えば、「あなたが美人である」というプロデュースをしたい場合、あなたに関わる人(=あなたを「美人・まあまあ・普通・ダサい・変」など判断する人)の脳裏に、あなたの狙った通りの反応を得る事である。美とは本来心地の良い感動を与えるものなので、視覚だけではなく、触感で味覚で聴覚で・・我プロデュースは幾通りもの方法があると言える。しかし、現代人はプロデュースを的確にしなければ成功させるのは難しい。というのは、我々は実に毎日いろんな情報に囲まれていて、脳は情報処理に膨大なエネルギーを使っている故、一つ一つの情報にじっくりと注意を払って反応している余裕がない。そのため、他人の印象などは素早くあっさりと処理してしまうのが脳の情報処理の癖となってしまっているのだ。人口が多く情報が溢れるNYでは他人の第一印象を判断する際、平均3秒(!)で品定めをするというリサーチ結果もあるから恐ろしい。そんな素早い情報処理を無意識のうちにしてる都会で「自分の狙った印象=美」を他人へ演出するためには、自分を客観的に判断し、かつ自分に何が出来るかが想像出来る頭の良さとセンス、そして自分がイケるところまで頑張る努力などが必要である。(あなたが個人付メイク・スタイリストや演出家、または超お金もちのパパなどに恵まれいる場合、話は別である。)

例えば、コレといって特徴がない外観のあなたが「ワタシは君島十和子風になりたいわ」と決意したなら最初にする事は美白と巻き髪だろう(御曹司とのケッコンもありか?)。「長谷川理恵風に」なら髪を短くしてジョギングから始めてみよう(超年上オトコと同棲する必要はない)。「ケイト・モス風に」ならどこまで痩せられるかが鍵となるので健康への配慮が必要ではあるが、もともときゃしゃな日本人の骨格ならおしゃれとアイラインの雰囲気で上手くまとまれそうである(クスリはやらないこと!)。
が、しかーし!
もし「私はビヨンセ風になりたいわ」と思って、肌を焼いて髪を染めて目を大きくして胸を膨らませて筋肉もつけても・・・あなたのもともとの顔立ちが田中裕子(ジュリーの奥さんね)風だったりしたら、ビヨンセ風になるのはとっても大変なことだろうと思う。どんなに「ソレ風」に演出しようとしても、もしかしてビヨンセ風と他人は受け取ってくれないかもしれない。結果、どんなに本人が「私ってビヨンセ・・」と思っても廻りとの評価が一致しないなら、そのプロデュース方向は失敗(=ださい、笑える、など)と大抵の人は判断するだろう。

・・・が、ほんとに田中裕子/ビヨンセ風の女というプロデュースは難しいだろうか?失敗するだろうか?周りの人達がアンバランスに思っていてもそれがユニーク、という風にはなり得ないだろうか?もし、我々が「美のあるべき姿」を頭の中に創っていなければ、田中裕子/ビヨンセ女史は独自の路線を行き「個性的な美人」とか言われたりするのか?

情報社会の現代では、メディアが美の「基準や多様性」を創り、バラ撒いているのに疑問の余地はない。メディアは、1900年頃にファッション誌、VOGUEが創刊された頃から本格的に始まったと言われている。当時、コルセット(!)から開放されつつあった女性達がモダンになろうとしていた折に、流行の最先端をいく社交界トップのご婦人方(ロックフェラーとかロスチャイルドとかそんな一族ですね)が、自前のオートクチュール(コルセットなし)に身を包み「私の今春のお出かけスタイルはこれ」なんていって流行仕掛け人になっていたりしたのだ。彼女らの「美」を見てみたい人が増えて、雑誌メディアはどんどん増刷し、他の雑誌も創刊していった。・・なんか、某ヒルトン嬢とかが「これが今、セクシーよ」とか流行を語ったりするのとヒジョーに似てます。

爆発的に広がった雑誌と、産声をあげたばかりの映画や広告などのマスメディアを通して、アメリカでは「美人」の基準(=多数の人が美しいと認めるもの)がだんだん認知され広がってゆく。この頃からマックスファクターがハリウッドセレブにお化粧を施し始め、時代はサイレント映画から色付き映画、フラッパー、モボ・モガなどへ進んでゆく訳です。面白いのが、アメリカで女性が始めて膝丈のスカートをはいて人前に出だした頃、日本でもモガ達が洋装で銀座を闊歩し始めていて、国は違えど女性開放トレンドは同時期に起こっていたということ。当時は、女が煙草を吸いながらオトコを惑わせたり、煙に巻いたりするのが「INな」態度だった様子(この後戦争やなんかで価値観がガラッと変わってしまうこととなるが・・)。なんかカッコいい時代なのである。

そして、マスメディアにつきものの道具、「カメラ」という、見る側と見られる側を明確に分ける機器がフル活躍しはじめたのも雑誌創刊のこの頃からなのだ。もともとカメラは1800年半ば頃に生まれたのだけれど、肖像・記念写真や記録を撮るための、いささか面倒で時間/手間のかかる(写真を撮られる人々はかなり長い時間カメラを睨んでジッとしてないといけなかったし、案外辛かったと思う)、「女性を美しく撮ること」に特に重点が置かれていた訳ではなかった。が、社交界のご婦人が写され、モデルがモードを纏って雑誌を飾るようになると、すぐに写真はアートとなり、カメラは、ストレートで強烈な印象を一瞬で伝えることの出来る最強の「客観的」メディアとなったのだ。そして、鮮烈な印象を創りだす事の出来るカメラの目を通した美人(=カメラ映りの美しい女性)が、美人のスタンダードになっていった(そして女性達は、ヤセ型=現在のモデル体型が最も写真で綺麗に見えることを見出し、そんな体型に憧れ始める)。

TVはそんなトレンドをますます助長した。

やがて、メディアはネットというターニングポイントで、革新的な進化を遂げた。ネットは個のメディアとなって個性化・多様化の時代を後押しするようになる。社会進出を果たし、より美しくなり賢くなった女性達は、しかし、情報によって先行したイメージにまだ囚われていて、美人の雛形パターンからとっても外れたところにいる人は外科・皮膚科技術進歩による修正(=整形)などで雛形に近づけるようになってしまった。そんな価値観は、拒食症という病気を生み、ニキビや皺を否定する動きとなり、均一化されて平均値は上がったけれど似たような顔ばかりが街に溢れるようになり、それって結局いいのか?みたいな疑問を生み出している。・・メディアが生んだ「雛形」なんてホントは怪しいものなのに・・。メディアの排出する、完璧な肌や輪郭や胸の谷間なんてみーーーんな整形+グラフィック調整されたエアブラシ付きのイメージなのだから、ホント。それを知らないと一般人は無駄な落ち込み&憧れを味わうことになる・・。

そんな現実も見据えて、自己プロデュースの方向を決めるのにセレブやモデルがお手本になるのはもう終わりにしても良いんじゃないだろうか?(正直セレブ・ブームには飽き飽きしてる私・・。) 何も彼女らをターゲットにしなくても胸を張って「自分は自分流よ!」という気概も、沢山の女性達の中に生まれていると思うからだ。ある日思いついた自己プロデュースをすぐにブログで試す事も出来るし、我々は日々どんどんユニークな、型にはまらない自己プロデュースが上手くなっても良い。俗に言う(マスメディアの報じる)美の「一般基準」から外れていても、それが個性であり自分がいいと信じるならCOOL!(カッコいい!)っていう・・・。メディアの伝えるビューティーが美の中心でいるよりも、沢山の女性がそれぞれの道をのっしのっしと歩いてゆく、そんな世の中の方がかっこいい、と思うのは私だけだろうか? 発展しずぎて個人主義になったメディアのおかげで様々な「美」の方向性が受け入れ可能な世の中に生まれてきて我々はホントにラッキーな筈であるのだ。

そんな「我が道を行く」美を育てるために、あえて雑誌やTVをしばらく見ないようにしてみるってのも手かも。(ここ4-5年TVを見ない生活をしてる私は・・けっこう快調だ。)

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